遅刻の代価
目の前に仁王立ちするリンの視線が痛い。
「レン」
低い声に背筋が伸びる。
「はい」
そろそろ正座続きの足が痺れてきたが、そんなことは言ってられない。
「あたしはぁ、三時に待ち合わせね、ってぇ言ったはずなんだけどぉ~」
突然リンの口調が変わった。軽い口調に反してとがっているオーラが痛い。
返事を求めるように視線が飛んできたので、恐る恐る口を開く。
「……その通りです」
「なのにぃ、レンが来たのはぁ、四時だったよねぇ~?」
「……はい、仰る通りでございます」
ずい、と顔を近づけられた。とびっきりの笑顔を、いつもはかわいいと思うのに、今は震えてしまうほど怖い。
「あたしずぅっと待ってたんだけど、レンはなぁにをしてたのかなぁっ?」
部屋で遊んでました。
なんてことは口が裂けても言えない。
リンと自主練する、ということは数分前までオレの頭から完全に抜け落ちていた。
ミク姉に、リンはどこ、と聞かれた数秒後、オレの顔から血の気が引いたのは言うまでもない。
慌てて来てこの練習室扉を開けた時、オレは一瞬、極寒の地にタイムスリップした感覚を受けた。
「本当にすいませんでした! 何でもするので、許してください!」
最後の手段、とばかりにオレは土下座をしてみた。
「なんでも?」
「……なんでも」
なにをさせられるんだろう、と床を見ながら思考を巡らせる。
茶碗洗い当番一週間、かな。風呂掃除、かも。
いや、いっそのこと一週間問答無用でぱしりとか。
嫌な想像をぐるぐるしてたとこで、リンがオレの前にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、ちゅーしたら許してくれたらあげる」
「ちゅっ!?」
思わず声が裏返った。地面を見ていた顔も上がる。
なにを、言って。は? ちゅー? ちゅーって、ネズミ? へ? は?
「ちゅーよ、ちゅー」
リンの顔が迫る。
思わず後ずさった。
「唇と唇合わせるだけでしょ? ほら、早く」
早く、と言われても。
合わせるだけ、と言われても。
リンの唇を凝視してしまう。
見るからに柔らかそうなそこに、自分のを重ねる。考えるだけで体が熱くなった。
「あの、その、」
口を開けど、言葉がうまく出てこない。
リンと……きす、なんて。いや、嫌じゃない。嫌じゃないけど。
オレは、そんなことしたことなくて。リンもきっとそうで。
世間では、これはふぁーすときす、というのではないだろうか。
そんなのを、今、する、とか、嫌じゃないけど、嫌なわけないけど。
リンの唇が動いた。
「……もー」
混乱しているからだろうか。目の前にいるはずなのに、ずいぶん遠くからの声に聞こえる。
「しょーがないなー」
仕様がない?
あまりになにもしないからリンが諦めた、ということだろうか。
ああ、せっかくのチャンスを、オレは、
むにっと、やわらかい感触が唇にあたった。
目の前数センチのところにあるリンのまぶたに、頭が真っ白になった。
「ごちそうさま~」
語尾におんぷでもついていそうな上機嫌さでリンは練習室を出て行った。
オレは呆然とその背中を見送ってから、はっと気づいた。
「リン! 今っ!」
ずべん、と盛大な音がした。
床に思いっきりぶつけた顔が痛い。腕が痛い。
なにより、しびれにしびれた両足が痛い。
キスをしてと言われて、
混乱しているうちにファーストキスを奪われて、
追いかけようとしても立てずに転んで、
一番、心が痛かった。
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はくしゅ
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